30数年前先代が舞鶴で始めた事業が関西でも有数のユニット鉄筋メーカーに成長した。普及の軌跡を見てきた山本社長は「震災以降、オーバースペック傾向が今、シンプル化に振れている」と語る。今後は、若い人たちに新たな展開を託している。

JHR会員うちの会社インタビュー 語る人
有限会社創桐・代表取締役 山本圭司 氏

山本社長
 「40代のころまでは、コックの夢をあきらめきれなかった」という。日本全国の都道府県を
全て行ったので、今後は東南アジアを制覇したいと楽しみにしている。
JHR会員うちの会社インタビュー」とは 
コロナ禍で生活や社会の姿が大きく変わってきましたが、日本住宅基礎鉄筋工業会の会員企業も新しい時代に向けて一生懸命活動しています。こうした会員企業の現状や今後の目標などについて、“うちの会社”を代表者に語っていただきます。

会社は業界でも古い方だとお伺いしていますが、ユニット鉄筋を始められた事情は。

山本 私は二代目です。先代がユニット鉄筋をやると言ったのが昭和62年で、当時あったスーパーベースを見て、見よう見まねで始めたんです。それ以来、鉄筋事業を私たちでやってきました。
先代は義父で大工でした。昔の大工さんは基礎も棟上げも全部自分でしていた時代。その中でユニット鉄筋を知ったみたいでした。鉄筋は全部手組だったので、これは間違いなく流行ると先代が思い、始めたわけです。

ユニット基礎鉄筋の創成期ですね。山本社長も大工さんだったんですか。

山本 私はコックをしていました。先代から休日だけでもいいから手伝えと言われて。コックは水曜日休みでしたので、水曜だけでもいいと言われて手伝い始めました。妻の父ですし、手を貸すだけだったらいいかなと始めたわけです。創桐という社名は桐材を使った押し入れのリフォームをするために名付けたそうです。それで週一で手伝っているうちにお客さんから電話がかかってくる。そうすると、図面を取りに行かなければならなくなる。僕、本業あるんだけどと思いながらやっていた。23、24歳のころでしたね。

ユニット鉄筋が伸びていったのは、大手ハウスメーカーなどに採用されたからですか。

山本 飛躍的に伸びてきたというよりも、当時は布基礎が主流で、製品は建材店にほぼ卸していた時代でした。そこでうちが現場に行って図面通り施工することをした。関西で一番最初でした。それでお客さんが大分増えました。ただ評定もまだなく、ハウスメーカーのユニット鉄筋の採用もまだ少なかった時代です。そこがスタートです。全部定尺材の36で持って行って、27とか18で切って繋ぐ。現場で寸法に合わせて切りながら組み立てていた時代です。そうこうしているうちに、基礎屋さんの方からハウスメーカーを紹介するよと言われて、住友林業様やパナホーム様の監督さんを紹介していただいた。
 当時の工場は舞鶴だけでしたが、仕事量が増えたので三田の山の中に工場を増設して生産性を上げていきました。私は営業専門だったのですが、その時一から工場を立ち上げることになりました。全部自分で準備して今の本社工場も作りました。

そういう時代から比べると今は製造方法も性能も品質も非常にレベルアップしていますね。

山本 やはり起点になったのは、平成12年に告示1347号が出た時からです。皆さん変わられましたね。べた基礎の構造に対して、肋筋の9ミリ以上とか間隔が300以下とかが明記された。ハウスメーカーさんもちゃんと法対応していこうとなった。それでうちも平成14年に初めてBタイプの評定を取りました。評定番号が008番で結構早く評定が取得できました。先代の社長にはそんなもの必要ないと言われましたし、ユーザーもまだ意識していなかったですね。
 評定を取るについては、アイワスチールの及部さんと会う機会があって、「これから評定が必要だ」と教えてもらいました。調べると評定開始2年間で取得者が7番目まで来ていたので、うちも急遽取らせていただいて、その後、B評定だけではだめだという指摘も受けたので独自に取得を目指していろいろ調べたのですが、最後はBRSに入れてもらいA評定も取得しました。

1 2